昭和54年7月22日 朝の御理解●④ ③ ④
                                 明渡 孝

 御理解第46節『痛いのが治ったのでありがたいのではない。いつもまめながありがたいのぞ』


 今はどうか知りませんけれども、●④昔、久留米の三本松に「丸善」という用品店がございました。松本という、「松本用品店」とも申しましたが。今でもどっか西鉄の近所にあるんじゃないでしょうか。
 もう当時、正札で売る店として、たいへん珍しいお店で、たいへん高級で、素晴らしいお得意さんばっかりで、まあたいへん繁盛しました。久留米の教会の初代の時の総代もしておられました。その方が、私、北京から引き揚げて帰ってきた頃に、親教会である三井教会に参拝してみえて、いろいろ、まあ信心の話やら商売の話やらさして頂いております時に、今でも忘れられないことがあるんですけれども。
 なかなか、いわゆる商売の名人ですから。そしてその、いわゆる信心をもとにしての商売。当時、正札で売ると。例えば久留米あたりやらは、たいへん駆け引きの町と言われるくらいに、素晴らしい駆け引きの上手な商売人が多いところですが、その中で、いわゆる正札で売るといお店は、ほとんどなかったと思います。その中にあって、その正札で売ることに成功された方なんですが。
 「松本さん、商売の、いわゆる金儲けのコツというのは」というような私が質問をしましたら、「大坪さん、金儲けのコツというのはね、もういつもが金儲けのというのがコツだ」と言われたです。もういつも儲かられるんだと。そして、思いますのにね、なるほど、もう正札に徹底するということは、もういつも、だから、確実な間違いのないお客さんが、もうしかも安心して喜んで買われる。そのかわりに、絶対商品は、どこの商品よりも信用のある立派な物を売るという生き方。●④
 これは理屈の上ではね、なるほど、そうしたら値切る人もないだろうし、まあなるほど信用もつくだろうと思いますよね。商売でも、信心でもやっぱそうですよ。話を聞いて、なるほどそういう生き方になりゃお徳を受けるだろう。しかも、今日の御理解などを頂いておりますと、「いつもまめなのがありがたいのぞ」と仰るのです。「難儀なことから助けてもろうて有り難やというのではない」「無い命を助けてもろうて有り難い」というのでもない。そういうことよりも、いつも元気である、まめであるということが有り難いんだと。だから、この有り難いといことが分かったら、もういつもお徳を受けるチャンスだということになるんです。ね。
 先日のあのミニ御理解の中にもありましたように、苦しいこと。ね。その苦しいことが大きければ大きいだけ、おかげも大きい。お徳も大きいというような御理解を頂きました。だから、お徳を受けるためには、力を受けるためには、何か大きな難儀に出会わなければ頂けないように思っておるけれども、もちろん頂けます。その難儀な問題を、いよいよ、始めて信心のなんたるかを分からしてもろうて、ね、いうならば、商売さしてもらうなら、ほんとにお客さんに喜んでもらう。しかも安心してもらうで売れれる生き方は、もう良い品物をしかも正札で売るというような生き方を身に付けたら、絶対間違いがない、と分かっておってもなかなかできんのです。ね。信心もそうです。ね。
 難儀な思いをする。どうにも、いうならばそれこそ、神か仏にすがらなければといったような時に、お互いが、大概の方が信心に入ります。そしてそこから信心を頂いていくという人が多いです。
 だから、信心とはそういうおかげを頂くことだと思うておる人さえあります。それこそ「悲しい時の神頼み」というふうに申しますでしょう。だから、そういうところから信心に入ったら、いわば正札で売れれる。しかも良い品物をと、これはもう大決断がなされなければできません。
 最近言われますように、ね、私どもは、「もうこの世は苦の世だ苦の世界だ」と。徳川家康の、いうならば言葉じゃないですけれども、「人生というものは、重い荷物を担いで、しかも坂道を歩くようなものだ」と言っておるそういうことを、そうだと思い込んでおる人がいっぱいなんだと。もうほとんどというてもよいくらいなんだと。「この世は、もう苦の世だ苦の世界だ」と思い込んでしまっておる。だから、苦の世苦の世界に住んで、苦しいばかり、いうならね、それこそ誰かの言葉じゃないけれども、「苦しきことのみ多かりき」で終わらんならん。
 なら、苦しきことのみで終わったらどういうことになるかというと、魂はそのまま、やはり苦しいことの魂の連続ではなかろうかと。この世で有り難い、ね、もうこの世には神愛あるのみだ。ご神願がいよいよご成就になることのための信心の稽古をさして頂くことが有り難い。暑いのも有り難いなら寒いのも有り難い、というような心を開かしてもらうというところから、今までの考え方思い方、今まで辿っておった道というものを回れ右して、いよいよ真の道を求めて、真の道を教えてもろうて、それを歩いて行きゃ絶対、「極楽行きだよ」「合楽行きだよ」と言うて聞かせて分かってもです、なかなか、いわゆる正札に切り替えることが難しいように、やっぱある意味合いでは難しい。我情があるから我欲があるから。ね。
 それを何かのきっかけにお繰り合わせを頂いて、自分の心の中に、とにかく今までの自分の生き方間違いに気が付かしてもろうて、なら、我情を取ることに我欲を取ることに本気で、「信心とは本心の玉を磨くものぞや」「信心とは日々の改まりが第一」という、そのところを、に気付かしてもろうて、御利益を受けるということが信心ではなくて、いうならば、「心治しの神じゃ」と仰る、いわゆる改まった生活に入るということ。そこから生まれてくる信心の喜び。その信心の喜びをもってすると、暑くても暑いを感じない。苦しいことにあっても、苦しいと感じない。「結構な修行をさして頂いて有り難い」というような心が開けてくる。ね。
 だから、そこを信心は見出さなきゃいけない。そして、分からして頂くことは、今日の御理解です。そういう痛い苦しいところが助けて頂いたということも有り難いけれども、ね、それじゃないと。いつもまめであるということが、一番有り難いんだと。それが分かった時に、始めてもう、お徳を受けるチャンスというのは、いつもがそうだということになる。
 だから、ここを、いうなら、そこを分からして頂くために信心の稽古をしておると言うてもよいのです。ね。話を聞きゃ今でも分かることでしょうが。もうそらそうじゃ。どうもないと、やっぱ一番有り難い時だと分かるんだ。
 ところが、どうもない時には、神様のかの字も言わんで、たとえ言うたとても、薄らぱぁっとしたもんである。何か尻に火が付いたようなことになってくると、一生懸命「どうぞどうぞ」と言うて願うというような人がほとんどなのである。ね。それでも神様は、やはりおかげを下さる。
 だから、そういうおかげを頂いてです、私どもがほんとうなことが分かるということ。そのほんとうなことが分かるということがです、ね、真の信心を求めるということになり、真の道を辿らせて頂くということになるのです。
 ●③みなさんが金光様の信心を頂いておる。合楽に通うてきておるから、真の道を歩いておるとは言えない。真の信心を頂いておるとは言えない。ね。なるほど、おかげを頂くために一生懸命修行もしよる、参ってもきよるけれども、それが真の道ではない。真の道とは、いよいよ私どもが、いつもお徳を受けられる生き方を身に付けるということである。●③ね。
 昨日も九時過ぎだったでしょうか、長崎から(ばん)という方が最近お参りされます。九州でも有名な踊りのお師匠さんらしい。何回か参ってみえた日に、いろいろおかげを受けられて、昨日は親子三人でみえられました。娘さん達は昨日始めてでしたけれど。応接間でいろいろ話を聞いたりさして頂いとるのでしたけれども。
 昨日はどういうことでみえたかというと、今福岡に、(でんきホール?)で踊りの会があっておる。それも今度は、(ふじま?)の家元であるところの(おめいしょうろくさん?)がみえておるというのである。歌舞伎役者のね。有名な役者です。だから、「親先生に是非一遍見て頂きたい」ということであった。
 今日は福岡に、なんとか、一時の御祈念がすんだら、炊事場、今度の建築の炊事場の方の見学に、昨日行くことに話が決まっておった。もちろん私が行こうとは思っていなかったが、けれども家内がその、「誰々が行きなさるですか」て。これはもう女が中心にならにゃならんとじゃから、家の良子さんか誰かを、嫁です。を連れて行ってもらうごとしとるじゃろうか、と家内が申しますもん。
 「さあ、良子さん話されなかったけれど、勝手の方を中心にしとる女の修行生の方が二・三人行くごたるふうぞ」と言うて申しましたら、「それは一人減らしてからでも、良子さんば連れて、一緒にやって下さい」と言うから、「うん、そりゃそうじゃな。だいたいほんなこと言うなら、お前が行かじゃろうがよかろうばってんね」と言うて話しておるところに、その今の(ばん)さんから電話がかかってきたんです。
 だから、「ああそうですか」と言うて、上野先生か誰かが受けておりましたから、急にその話を聞いたんですけれども。それの真は、いうならば、私を福岡に連れて行きたいとこう。踊りの会を見せたいというのが真でした。ね。
 それで私は、こちらから一時の御祈念終わってから行くならば、ちょうどあちらで「、どこ、何とかに行くったな。どこに行くっつたかな。宮殿のなんかを秋永先生が、(心安く?)しとるから見せてもらおう、ということであったから、そうすると私も見せて頂けれる、家内も見せて頂けれる。すると、家内が行くならばこれが一番良かというわけで、実はこんなわけでね、明日は福岡行きになっとったんですよ。私がわざわざ踊り見に行くというようなことは、なかなかできませんけれどもね。明日は福岡へこうやって行くようになっておったからあの、ちょうどそれは幸い。
 しかも、あちらであるのが、午後の部は(よしくら?)だそうですから、ならそちらを見て頂いてから私が、まあ(でんきホール?)ですから(でんきホール?)の前でちゃんと待たせて頂いておりますから、ということでございました。うん。それでまあ今日私も行くことになると思うんですけれどもです。ね。
 ●④合楽の場合は、いつの場合でも、何かこうあの、何と申しますか。この川を渡ろうと思うておると、船がやってくるといったような感じがいつも頂けておるということです。ね。いうなら、素晴らしいタイミングが生まれるということです。ね。
 それはどういうことかというと、私は、いつもがお徳を受けるチャンスであるというふうな頂き方をしておる。それこそ「いつもまめながありがたいのぞ」という信心が、だんだん身に付いてきたからだというふうに思うんです。●④ね。
 だから、苦しい時の、いうなら神頼みから入ってもです、だんだん、いうならばもう健康になって、もうそれこそ「無い命を助けて頂いて、もうそれこそ有り難涙に暮れるほどしに有り難い」と言うておっても、だんだん日にちが経つにつれてその、お参りも途絶えてくるといったような結果の信心ではつまらんでしょう。
 私どももやはり、苦しいこと、苦しいことばにいろいろ直面して、いよいよ神様へ打ち向かうたんですけれども、おかげを頂いて、その後も信心が続いたというところにです、いうなら、四十六節ということは、「六」という字をここでは「徳」というふうにまあ申します。だから、「始終」ということは「いつも」ということである。いつもお徳を受けれるチャンスだと。
 私は今日、ここを開かして頂いた途端にです、いうなら久留米の松本用品店、いわゆる(まーじんさん?)のことを思い出させて頂いたけれども、金儲けのチャンスというのはいつもであるということ。何か売り出しとか、何かするという時だけじゃない。ね。いつも、上得意さんが付いて下さることになるためには、まず「私の方には全然駆け引きはありません。正札です」と言うて、これを押し通して行くだけの勇気と、もちろん、なるほど品物も立派であるというような信用をとるということが、お徳を受ける、金儲けのいうならばコツであるように、神様から「あればっかりは、もうほんな頼む時ばっかり」と神様から思いなさったんじゃ信用はつかんです。ね。
 それこそ平穏無事の時に、いつもまめな時に、いよいよ有り難いという信心が進められていくというようなおかげを頂いてです、始めて神様が「あの氏子は狂いがない。間違いがない」というご信用がつくんです。ね。神様のご信用そのものがご神徳です。だから、お徳を受けるチャンスはいつもであると言えたり思えたり、また頂けれる信心を頂きたいと思うですね。どうぞ。